特雪の魔力 4話 “ネゴシエーションスキル” 米坂線特雪

特雪の魔力 4話 “ネゴシエーションスキル” 米坂線特雪
すっかり日も落ちて、山陰になってしまった撮影地。
現代のデジカメなら何の問題もないであろう撮影条件も、
当時のペンタ67の撮影では細心の注意をはらう必要があった!!
遠くから“バタバタ、バタバタ”とロータリーサウンドが聞こえて来た・・・。
そして、あちきの大好きな“DD14特雪”がやってきました。
あちきの90年代の冬の撮影は“特雪シフト”を組んでいました。
当時の三共の栄養ドリンク“リゲイン”の宣伝ではありませんが“24時間戦えますか”を座右の銘にしておりました。
サラリーマンですから仕事をしてなんぼです。ところが“特雪シフト”の為、突発的に有休を要求するわけですから、日頃の職場でのコミュニケーションが必要不可欠だったのです。
あちきはこうして、ネゴシエーションスキルを磨いてきましたとさ。
ポチして頂けると、嬉しく思います!!

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深名線挽歌 “特雪” 新潟鉄道記Ⅱ・梨五郎さんの“Red Wing”に捧ぐ!

深名線挽歌 “特雪” 新潟鉄道記Ⅱ・梨五郎さんの“Red Wing”に捧ぐ!
“特雪” のお話である。
門外漢にとっては、何を言っているのかさっぱり意味が分からないはずなので、
見ても読んでもつまらないと思うので・・・。
あちきの“特雪”の師匠はRM誌でおなじみの木村忠吾氏である。
“特雪”撮影の免許皆伝を受けること2-3年・・・。
①雪が降ったらまずラッセル車が稼働する。ロータリー車はすぐ稼働しない。
②ラッセル車を何度か通して、雪の壁が出来たら保線区の判断で“特雪”(ロータリー車)の出動となるのだ。
③どれだけ保線区と運転区と仲良くなるかが“特雪”撮影のカギとなるのだ。
そして、連絡先を知ることになる。

深名線挽歌 “特雪” 新潟鉄道記Ⅱ・梨五郎さんの“Red Wing”に捧ぐ!
ひょんなことから新潟鉄道記Ⅱ・梨五郎さんと友達になったのだ。
梨五郎さんのRM誌で発表された“Red Wing”をご存知だろうか?
それは“特雪” 撮影の最高傑作だと思う。
地元で、気象条件を知り尽くし、撮影現場を知り尽くし、地形と吹き溜まりを読んでこそ出来る、
至難の業!!ただしこの凄さは現場を知る人でなければ分からないだろう・・・。
あちきは、あえて深名線“特雪”で梨五郎さんに勝負を挑みたいのだ!!
北海道のパウダースノーの“特雪”で・・・。
あの頃は、あちきも若かったし体力もあった、勝手知ったる“特雪”の現場では、
撮影回数より内容を選んだのだ・・・。
キャノンEOS1N+300mmF2.8の(最高の組み合わせ)1台を担いで、かんじきを履いてサラサラの雪
の斜面にアタックする。予想通りの雪のアーチをゲットして雄叫びを上げるのだ!!

深名線挽歌 “特雪” 新潟鉄道記Ⅱ・梨五郎さんの“Red Wing”に捧ぐ!
取材では必ず人間臭い画像が必要となる。
人間関係が良好でなければ、こんな点検ハンマーを握った画像はGETできないのだ・・・。
特雪の魔力 3話 “どうにもとまらない” 北上線特雪

特雪の魔力 3話 “どうにもとまらない” 北上線特雪
94年2月16日(水)
“北上線特雪”特雪751ㇾ 北上10:30→横手16:44
DD14306[青東]+ DE101537[青東]の重連。
当時、翌年から北上線の除雪がDD14からモーターカーに変更になる噂を聞いた。
今回の特雪も平日運転の為、会社から突発の有休を何とか取得できた。
北上線は、雪のある区間が道路から離れており撮影回数より質を選びたい。
今回は、作業区間では段切り翼を出すと聞いていたので楽しみにしていた。
和賀仙人からのアプローチは意外と雪が少なかった。
それでも何とか、俯瞰撮影地を確保し特雪427ㇾを向かい撃つ。
段切り翼も出ており、何とか迫力のあるカットをものにできた。

除雪作業は、薄暗くなってからも続いた。
相野々では、夕刻の撮れるか撮れないかギリギリの時間帯に“特雪”はやって来た。
今シーズンは、あと何回“特雪”を撮影できるだろうか。
山本リンダではないが“特雪”撮影が“どうにもとまらない”のだ・・・。
特雪の魔力 2話 “氷雪の行軍・深名線特雪”
米坂線特雪撮影の二週間後。またまた前々日に突然会社に、木村氏から電話がありました。
明後日“深名線特雪”走ります。明日の羽田発20:00の全日空75便で出発します。
航空運賃はノーマルで高くなりますが、深名線内でのダイヤや作業区間は全て確認できています。
遠いですけど行きますか?
ハイ行きます。仕事の休みは何とかします。千載一遇のチャンスは逃したくありません。
それでは明日、全日空75便で待ち合わせしましょう。

94年2月8日(火)
“深名線特雪”特雪427ㇾ 幌加内8:50→朱鞠内11:59(到着後構内除雪)
DD14329[旭川]+ DD14330[旭川]の背合重連。
新雪の急な斜面を慎重にトラバースしながら、泳ぐようにゆっくりと高度を稼ぐ。
北海道特有のパウダースノーが、行く手を阻む。
先頭を行く同行の木村氏は、重い機材をもろともせず、確実にラッセルしながら高度を稼いで行く。
あたかも、雪と戦うことを楽しむかのように。
妥協の赦されない雪との戦いは続く。
やっとの思いでたどり着いた稜線から後ろを振り返る。
雪に埋もれた幌加内川の対岸の鉄路は大きくSカーブを描いている。
雲の間から、時折顔をのぞかせる太陽。新雪のベールに覆われた鉄路は輝きを失っている。
どれほどの時がたったのだろうか。暗雲とともに、ゆっくりと“特雪”が現れた。
谷を挟んで、幽かに聞こえてくる独特のロータリーサウンド。

多すぎる雪に喘ぐDD14背合重連。投雪は思いのほか遠方へは飛んでいない。
かき寄せ翼から溢れる雪。想像を絶する雪との闘い。
深名線の雪は、本州のそれとはあまりにもかけ離れていた。
明後日“深名線特雪”走ります。明日の羽田発20:00の全日空75便で出発します。
航空運賃はノーマルで高くなりますが、深名線内でのダイヤや作業区間は全て確認できています。
遠いですけど行きますか?
ハイ行きます。仕事の休みは何とかします。千載一遇のチャンスは逃したくありません。
それでは明日、全日空75便で待ち合わせしましょう。

94年2月8日(火)
“深名線特雪”特雪427ㇾ 幌加内8:50→朱鞠内11:59(到着後構内除雪)
DD14329[旭川]+ DD14330[旭川]の背合重連。
新雪の急な斜面を慎重にトラバースしながら、泳ぐようにゆっくりと高度を稼ぐ。
北海道特有のパウダースノーが、行く手を阻む。
先頭を行く同行の木村氏は、重い機材をもろともせず、確実にラッセルしながら高度を稼いで行く。
あたかも、雪と戦うことを楽しむかのように。
妥協の赦されない雪との戦いは続く。
やっとの思いでたどり着いた稜線から後ろを振り返る。
雪に埋もれた幌加内川の対岸の鉄路は大きくSカーブを描いている。
雲の間から、時折顔をのぞかせる太陽。新雪のベールに覆われた鉄路は輝きを失っている。
どれほどの時がたったのだろうか。暗雲とともに、ゆっくりと“特雪”が現れた。
谷を挟んで、幽かに聞こえてくる独特のロータリーサウンド。

多すぎる雪に喘ぐDD14背合重連。投雪は思いのほか遠方へは飛んでいない。
かき寄せ翼から溢れる雪。想像を絶する雪との闘い。
深名線の雪は、本州のそれとはあまりにもかけ離れていた。
特雪の魔力 1話 “第一種接近遭遇・宇津峠”

米坂線・宇津峠 特雪623ㇾ DD14309[長岡]+ DD14317[長岡]の背合重連。
時刻 羽前椿13:05→羽前沼沢14:30-40→小国15:46
なぜか前照灯は点灯せず尾灯を点灯しての登場だ。
特雪の魔力 1話 “第一種接近遭遇・宇津峠”
一度豪快に全力で投雪する姿を見てしまったら・・・。
“特雪”に病み付きになってしまいます。
更に悪いことにこの後に“深名線特雪”を体験してしまいました・・・。
“特雪”が“どうにもとまらない”状態になりました。そんな記録の始まりです。
豪雪の雪国で活躍する“ロータリ-車”を撮影したい願望は昔からありました。
ラッセル車は、偶然に何度か撮影することが出来ました。しかし除雪中の“ロータリ-車”は一度もまともに撮影できた
ことがありませんでした。(停車中又は回送は何度となく撮影済)
きっかけは93年に木村忠吾氏(鬼平犯科帳の登場人物と同姓同名である)の出会いから始まります。RMを通じて
知り合い、僕の“インド蒸機撮影情報”と交換に“特雪撮影指南”を伝授して頂けることになりました。
94年1月25日(火)。前日に突然会社に、木村氏から電話がありました。明日“米坂線特雪”走ります。
会社休めますか?ハイ休みます!!
それでは明日、東京駅12番線ホームの「つばさ113号」の自由席で待ち合わせしましょう。
木村氏からの忠告。
始めにお断りしておきますが、蒸機の撮影と同じようにスカ(除雪をしない区間)もあります。
まともに特雪の投雪を受けると怪我ではすまない場合がありますので撮影には充分注意してください。
本日はだいたいの除雪作業区間を事前に確認してあるので、多分うまく撮影ができるはずです。
後は天候と雪壁と次第です。幸運を祈りましょう。
米坂線で初めてこの目で見たDD14に感激しました。
遠くから聞こえてくるバタバタとロータリーが固い雪を砕く音。
そして雪の投雪角度を調節しながらゆっくりとこちらに向かってきます。それはまるで“赤い食肉怪獣”そのものでした。
特雪623ㇾに感動を頂きました。
そして“特雪撮影指南”を伝授していただけた木村氏にも感謝の気持ちでいっぱいでした。
帰りの新幹線の車内のビールでの乾杯は一生忘れる事はありません。
“特雪フリーク”の誕生です。